マタイ6章10節「みこころが…行われますように」
私たちは皆、罪びととして、自己中心です。神の王国が来るように祈りながら、こっそりと、意識しないで、自分の王国を建てて、治めたいと思う「肉の欲」が残っています。神に服従して、しかも十戒のとおりに満足できるように、祈る必要があります。
イエス様は主の祈りで「みこころが天で行われるように、 地でも行われますように」と教えました。これを短く解説するウェストミンスター小教理問答の第103問はこれを二つの事を求めると言います。「神が恵みによって私たちにも、天における御使いたちのように、万事につけて神の御意志を知り・従い・服することができる力と意志とを、授けてくださるように、ということです。」
みこころを知るように
神様のみこころ、「御意志」は、なされるべきことです。私たちに示されていないみこころもお持ちですが、申命記29章29節が言うように、「現されたことは…私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うため」に教えられています。簡単に言うと、聖書が神様から具体的に与えられた道徳律法のことです。これを知ることができるよう、まず祈ります。
私たちがこう祈るなら、実際に神の教えをよりよく知るように努力するべきです。難しいことですが、素晴らしい実りと希望をも受けられます。ぜひ学びましょう。
みこころを行えるように
ただ、知るだけでなく、教えられたみこころに従うように、願います。単純に神様に一任するのではなく、私たちもみこころの実行に賛同します。これは人生を辛くするためではなく、喜びのためです。「幸いなことよ 全き道を行く人々 主のみおしえに歩む人々。」(詩篇119:1)神様に従おうとこう祈ることはつまり、他の人も私たちも神様からの知恵と助けを受けて、信じて行うことを祈ることです。
世界の全ての人の行いは神の御手の中にあります。でもそれを嫌がって反抗するのと、知って喜んでついていくこととで経験は全く異なります。「【主】のおしえを喜びとし 」て歩む人は幸いです(詩篇1:1-3)。
みこころを受け入れるように
「万事につけて神の御意志を…服すること」は何と難しいことでしょう。私たちにしなさいと言われる律法ではなく、理由が現されていない神様の摂理を感謝の内に受け入れることです。
ヨブは幸せな家族を持ち、財産もたくさん持っていましたが、悪魔は神様に許可を受けた上でそれを奪いました。健康をも奪いました。惨めな状況に置かれたヨブは何と大胆な告白をしたことでしょう。
ヨブ1章21節 「私は裸で母の胎から出て来た。 また裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」
神様が間接的にでも、みこころによって全てを取られたと受け入れました。そういう意味で服しました。ヨブ記の続きでヨブが無口ではなかったことは確かです。彼は猛烈に嘆いてもがきました。でも1章、そして葛藤を経て、最後のヨブ記42章で神様に委ねるところにまた落ち着きました。
力と意志のために
最終的に、私たちは神のみこころを分かって、従って、受け入れることは自分の力できないからこそ、イエス様が私たちのために神のみこころを完全に行われました。最後に神のみこころに委ねて死なれ、復活して、私たちを執り成しで支えてくださいます。イエス様によってこの祈りが成就されました。
さらに聖霊様を贈り、私たちに「みこころが…行われるように」と祈り、実践できるようにしてくださいます。パウロはピリピ人への手紙2章13節で、私たちに力と意志を下さる「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」私たちの内にも、私たちがきよめられていく聖化の過程でも、この祈りは成就されていきます。
ですから、今日の祈りの課題も主に委ねて、みこころがなるように祈りましょう。
・聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会。
ウェストミンスター小教理問答は日本基督改革派教会大会出版委員会編(榊原康夫訳、新教出版社1994年・2000年)より。オンライン無料版。