聖書を通して聖書を読むこと、と祈り(WCF 1:9)

ウェストミンスター信仰告白第1章9節

「聖書解釈の無謬(むびゅう)の規準は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の個所によって探究し、知らなければならない(1)。」

参考聖句:  1 Ⅱペテロ1:20,21、行伝15:15,16

聖書と思い巡らし〜聖書箇所を聖書全体から解ろうとする挑戦

 合理性や科学、個人の体験や気持ちを判断基準にして、聖書箇所を解釈する誘惑があります。しかし、矛盾や理解不可能と思われる聖書箇所に遭遇すると、そういった基準に頼って意味を捉えようとするのは危険です。それ自体が矛盾や混乱に繋がります。聖書そのもの全体が神の言葉であるとすると(1章4節参照)、その教えに矛盾はなく(使徒15章15節参照)、神様を信じてこそ、解る道が開かれます。

第二ペテロ1章20〜21節 ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

ヘブル6章18節 …神が偽ることはあり得ません。

 その「道」とは、「聖書自身である」のです。聖書を通読し、また関連箇所を比較し、真理なる神様(信仰告白1章4節)の思いを汲み取るように挑戦します。イエス様が律法学者たちに難問を投げかけられると、「読んだことがないのですか」と口癖に、聖書に戻り議論されました(マタイ12章4・5節、19章4節など)。

 なお、聖句の意味が「多様ではない」と書かれているのは、中世のローマ・カトリック教会が各箇所に四つの意味合いがあると言うことに対する反論であり、一つの箇所に多くの真理が含まれているという意味ではありません。ただ、主旨は一つだということです。

 聖書に難しい箇所があるのは、第二ペテロ3章16節でも認められています。そこで、「もっと明らかに語る他の個所」と照らし合わせる原則を覚える必要があります。聖書をよく読んでいないと、パッと主観的に受ける印象を主旨として捉えたり、聖書全体の教え(聖書神学、組織神学がそれをまとめるものである)を熟慮しない説明に頼ったりしてしまう可能性があります。

 聖書はあらゆることを精密に教えていないとは言え、「神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄」をはっきり教えている箇所がたくさんあります(信仰告白1章6節)。それらを参照して、聖書全体が矛盾しあわなず、嘘をつかないという神への信仰によって、全体像を捉えようとクリスチャンは挑戦する必要があります。(1章7節参照)この挑戦は一生涯掛かりますが、神様を知るという偉大な挑戦の基本であり、私たちを喜びで満たす第一歩です。

祈り

 天のお父様、聖書に解らないことが多くあり、気が遠くなることもあります。矛盾があると言う学者を聞いたりすると、疑おうかとも悩みます。しかし、あなた様が真実のみを語られると信じます。神様の教えをよりよく理解できるように、調べたり聞いたりする努力を惜しまないように助けてください。解りにくいこともより易しい箇所から解り、神様の素晴らしさをもっと教えてください。そうして、神様を礼拝し、喜ぶ心を励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

※引用:(1)聖書箇所は原則、新改訳2017 (©2017 新日本聖書刊行会)の引用です。聖書の写真は同様。(2)「ウェストミンスター信仰基準」日本基督改革派教会大会出版委員会編、1994、新教出版社。1964年訳 日本基督改革派教会信条翻訳委員会。

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