イエス様との「食事」の時間(神様との交流の特権)
黙示録3章20節 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
神様との関係
キリスト教は特定の神様との深い関係である。よく、神様との「交わり」と言います。つまり、相互関係である。
一方的に神様に何かを求める関係ではない。一方的に神様の言うことをただ黙々と(あるいは嫌々ながら、又は恩返しとして)義務を果たす関係でもない。神様が人と交わす愛の関係、「永遠のいのち」がキリスト教のの中心である(ヨハネ17章3節参照)。キリスト「道」とも言おうか。
祈る、という特権
キリスト者は学問と関係なく、年齢や体の状態と関係なく、神様と「対話」する特権を受けている。イエスの十二の弟子たちも背景にかかわらず、その特権を受けていた。彼らと話した宗教的指導者たちはそれを感じ取れた(使徒4章13節)。
しかし、神様と共に時間を過ごすのは使徒に限らず、キリスト者全員が受ける特権である。いいね!
そして、聖書的な「交わり」(交流)の基本とは、時間を取って、神様と対話することである。イエス様がクリスチャンの一人一人を招いてくださった。友達同士で良い食事を食べて、話し合う楽しみのように、イエス様がその交わりを求めてくださる。こうおっしゃった。
黙示録3章20節 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
こうして、神様との交わりは、心を開いて神様とその時間を求める全ての者に与えられる。
祈りと聖書は循環!
でも、祈りだけでは、神との交わりは生まれない。私たちは、壁に向かって話すのではない。すでに神様からの語りかけがあると聖書は言う。神様の語りかけである聖書があるからこそ、神様に対する語りである「祈り」も可能。
真理なる神様(ヨハネ17章17節)こそが聖書の著者である(ウェストミンスター信仰告白1章4項)。私たちはそれに心の「耳」を傾けて、感じる悩みや感謝、咎めなど、自由に祈って差し上げられる。
したがって、祈る前も後に聖書を読むと、神様の思いを知り、どう祈れば良いか分かりやすくなるだろう。盲目に主の祈りで「御心になりますように」(マタイ6章10節)でなく、神の御心を知った上で祈ることができる。神様との交わりはこうして、聖書・祈り・聖書・祈りで循環する。
聖書から祈って、主を味わう
祈りの醍醐味は「苦しい時の神頼み」のような交渉ではない。神様との活き活きした「交わり」である。レストランで食事を楽しむなら、まずメニューを確かめる。それから注文して、後でごちそうを頂く。例えば、神様がどういう方か、何をしてくださるかを先に学ぶ。神様のその善さを理解してから、実際にそれを経験するように、祈る。最後に、結果を経験する。詩篇34篇の信者たちのように、神様ご自身が何にもまさっていつくしみ深く善いお方だ、とよりよく知る。そうすれば、もっと聖書も祈りも楽しめる。
詩篇34篇6~8節 この苦しむ者が呼ぶと 主は聞かれ すべての苦難から救ってくださった。
主の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り 彼らを助け出される。
味わい 見つめよ。 主がいつくしみ深い方であることを。 幸いなことよ 主に身を避ける人は。
十字架にかかり罪を贖い、復活して今も罪びとの信者のために執り成しておられるイエス様が「食事」へ招いてくださった訳である。私たちのような人と関わりたいと思ってくださるから。聖書を「食べて」栄養を受けて、祈りで応答して、神様との交わりを楽しんでみてはどうですか?
参考:「永遠のいのち」について
※聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会。
トップ画像:Henry Ossawa Tanner作「The Thankful Poor」(1894年)より。