分裂の主な「種」は、何だろうか?
神学が好きとか、某神学を自分の聖書的理解として受け入れていると言うと、言われなくても、よく思われていると分かる。「神学を争うから、教会はこんなに分裂して、キリストにある一致が見えにくくて、悪い証しになって、宣教が進まないのではないか…」と、そう思うことはあなたにもあるのだろうか。私も、より元気な教会のために、神学を強調しないで波風を立てないのが良いかなと思うことだってある。
でも、このようなブログを書く訳である。
神学が主な問題でなく、私たち人間の罪深さが神学であれ他に何でもを言い訳や盾にして、愛を持って語らないのが問題ではないかと思う。神学は不健全な別れの種にもなれるが、それが中心の問題ではないと主張したい。
少し考えてみよう。日本全体にあるプロテスタント教会だけに限定しても、何百種もあるだろう。特に「単立教会」など横の繋がりを持たない「家の教会」などを考慮すると、本当に多数にある。(教会政治の聖書的なやり方はここの論点ではない。とにかく、多くの別の種類の教会がある訳である。)
では、そのうちどれぐらいは神学で別れて、どれぐらいは文化歴史背景で別々にあり、どれぐらいは他の理由で別れているのだろうか。
統計で確認した訳ではないが、「他の理由」が多いのではないかと想像する。そして「人間関係の問題」の括りで、他の教会と深い交わりを持たない、別教団・教派を作っているケースが多いのではないかと思う。
そう思う理由の一つに、まずはっきり言うと日本のクリスチャンは神学をほとんど意識していない。神学をそもそも意識して話し合う教職者、ひいては信徒は、とても少ない。
一致団結などを重視するが故か、結局、表面的なことで一致するつもりで団体を組むとしよう。でも、信念を掘り下げて共有するわけではない。では、なぜ別々にあるのだろうか。
それより、神学でなく人間関係の問題が原因だと言うのは、それが日本文化の課題だからです。「建前」の、「表」の「一致団結」、「キリスト教的愛」を謳うが、これは本当の一致や愛なのか。人格の衝突、苦い想い、わだかまりがあって、人は和解を求めない。
昭和時代のやり方なら、上下関係を利用して上の人が下の人を従わせたかもしれない。平成、令和時代となると、その元号の名にもあるように、共栄共存の「平和」を求める傾向はある。暴力的な言い方は避けようということで、相対主義的に色々な考えを認め合おうという風潮になった。意味ある、神学や教会生活の実践の違いなどはあっても、それについて意味ある議論をするな、となった。
議論が悪く、暴力的また分裂起こしかのようになってしまったのではないか。
そうすると、予期せぬ副産物はあると思う。もちろん悪い喧嘩を離れるべきだが、人が議論・衝突しないようにする空気の中で、人は、傷ついたことも信念の違いをも、隠す。これは「我慢」になり、我慢しきれないと思った時、別れる(「最後の日曜日」という記事参照)。教団のレベルでは、爆発して、神学が同じなのに別の教派を作る…あるいは、教会から姿を消して、「家庭礼拝」や「個人での礼拝」だけで満足しようとする。
兄弟姉妹、これは不健全な分裂です。
むしろ、良い神学、つまり神様のみ言葉をできるだけ真摯に信じて、まとめて実践する学びは、私たちを余計な別れから守るのではないだろうか。
ここで長く書けないが、例えば聖書的な衝突(責め合い・悔い改め・赦し合い・和解)は神様の教えをまとめた「神学」に他ならない。これはまた、聖書論・神論・人間論・救済論などと繋がる話である。神学と呼ばなくても、私たちは神学の枠組みで聖書を理解して、互いと関わり合う。
だから、神学のせいにしないで、自分の傷を嘆き、罪を認め、またキリストの福音に望みを抱いて、歩もうでなはいか。多少違う神学を持っていても、本当の信仰と悔い改めに歩む全ての兄弟姉妹を覚えて、祈りたい。分裂の種は神学より、私たちである。分裂の癒しをもたらすのは私たちではなく、聖書から来る神学に宣べられる主イエス・キリストの霊である(エペソ4章1〜6節)。
