マタイ6章11節 「ふさわしい分」(「私たちの日ごとの糧を」 ①)(主の祈り13)
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」主の祈りで私たちがよく祈るかもしれませんが、日本のような国では一見、祈らなくてもよさそうな祈願です(マタイ6:11)。快適に暮らす人が多いから、日常的に食べ物の心配は大抵、していません。
しかし実際、私たちは神様から全てのものを受けて、生きています。だから主イエスが主の祈りでこう教えてくださいました。ウェストミンスター小教理問答問104が次のように説明します。
「…神の無償の賜物の中から、この世の良きもののふさわしい分を受け…るように祈ります。」⑴
これを使って、この祈りについて少し考えてみましょう。
神様の賜物から
私たちがどんなに一人前になったと思っても、神様の一方的な恵みがなければ何もできない、とへりくだる必要はあります(第一コリント4:7参照)。
ヤコブ1章17節 すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。…
これを思い出して、今日の願いを祈ります。神様が力も善意も働かせるからこそ、私たちは良い物を作ったり買ったりすることができます。自信を持って要求するのでなく、感謝を持ってお願いします。
世の良いものを、十分に
聖書は世のものが良いものとして造られたと教えます。用い方次第でとても良いことがありえます。例えば、富を賢明に用いると多くの人また教会の成長に貢献できます。また、人生を元気に生きるために健康な飲食料や衣服、住まいも大切です。こういった益を祈り求めて良いです。さらに、美しいもの、人との関係などの良いことも、日ごとの糧として求めて良いです。
ただし、イエス様は余計なことを求めなさいとは教えられません。例えば、移動手段が必要なら、普通の車やバス、自転車で大丈夫です。高級車は悪い訳ではありませんが、無くても良いです。主の祈りで、必要なもののふさわしい(適切な)分量を求めます。少な過ぎるのも、多過ぎるのも避けられるように、祈り求めることができます。
箴言30章8~9節 貧しさも富も私に与えず、 ただ、私に定められた分の食物で、 私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、 「【主】とはだれだ」と言わないように。 また、私が貧しくなって盗みをし、 私の神の御名を汚すことのないように。
隣人への愛に押し出される
なお、「私たちの」糧を祈りますから、他の人をも思わされるべきです。「世の良きもの」について不足して困っている人がいます。家族や友人、地域にもいるかもしれません。支援手段など複雑なケースをここでは詳しく取り上げられませんが、もし私たちの良きものが足りているなら、余った富や時間で人に仕えるように神様は教えておられます(ルカ3:10-11、ヤコブ2:15-16参照)。
でも、聖書は与えなさいと教えますが、罪悪感やただの義務感より素晴らしい動機で教えます。こうしなければ神に祝福されない、という「律法」の原理で私たちに迫りません。むしろ、神様が愛して赦し、生きた関係の恵みを下さるゆえに、感謝して人のために生きるように促す、という「福音」の原理を差し出しています。例えば、次の箇所があります。
第一ヨハネ3章16節 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
神様がまず私たちを愛したゆえ、私たちは愛することができます。イエス様が惜しまずに私たちを満たしてくださる恵みを示してくださっています。そこで、私たちは感謝の応答として自分と他の人のために祈りますし、ときにはささげます。神様が「日ごとの糧」として、ふさわしい分を一人一人に下さいますように。
参考文献
・聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会。
註 ⑴ 日本キリスト改革派教会公認・袴田康裕訳(2023年)。
