「…私たちの父よ」主の祈り(3)

共同体として、教会は祈る

 クリスチャンは個人として、一人一人自分で信じるように求められるし、個人として祈るようにも教えられますが、それだけではありません。

マタイ6章9節 「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。…』

マタイの福音書6章9節に一言、「私たちの」も書かれています。主の祈りのとても小さな部分ですが、ウェストミンスター小教理問答はこれにも言及します。小教理問答第100問を引用します。

問:主の祈りの序言は、私たちに何を教えていますか。

答:(「天にまします我らの父よ」という)主の祈りの序言が私たちに教えている事は、…私たちが他の人々と共に、他の人々のために祈らなければならない、ということです。

独りで祈る時もある

 確かに、独りでで祈るときはよくあるかもしれません。イエス様は主の祈りを教える直前にも、独りで、部屋に隠れるように祈ることを教えられました。文脈からすると、それは特に独りで、誰にも見えないようにする必要がある訳でなく、大げさに、また威張るように祈る高慢に対する警告でした(マタイ9:5-6)。でも確かに一人で祈ることはよくあるでしょう。

共に祈る特権

 しかし、クリスチャンには共同体、教会に加わる特権が与えられていて、共に祈る特権も与えられています。私たちは「縦」関係の神様との交わりである祈りでも、「横」の繋がりを覚えます。使徒パウロはこう書きました。

ローマ人への手紙15章6節 そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

 クリスチャンは教会の家族として、「心を一つにし、声を合わせて」賛美の祈りをささげますが、同じように願い事をも共にささげて、神様に喜ばれます。

 主の祈りで特に、これが分かります。家族に一人だけクリスチャンであっても、神の家族の中では、またその仲間と一緒に、「私たちの父よ」と祈ることができます。心を合わせることができます。

互いのために祈る特権

 「私たちの…私たちも…私たちに…私たちを」と「私たち」は続くマタイ6章11~13節に5回も書かれています。自分の必要について祈ると同時に、互いの必要のためにも祈ります。使徒パウロは教会生活実践の手引き、テモテへの手紙第一にこう書きました。

第一テモテ2章1~2節 …すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。 

 教会の「私たち」がクリスチャンの歩みを歩むべきように歩まれるように、祈りなさいということです。互いが支えられるように、必要が満たされるように、とお互いのために祈り合います。よく、これを「とりなしの祈り」と言います。「牧会祈祷」」の大きな目的も、周りの人のために神様に願うことです。

 ですから、「私たちの父」と祈りを始めて、私たちは共に、お互いのために祈る特権を受けています。