「すべての存在の唯一の源」、と祈り (WCF 2:2a)
ウェストミンスター信仰告白第2章2節 ⑴
「神は、ご自身のうちに、おんみずからすべての命(1)、栄光(2)、善(3)、祝福(4)をもっておられ、ご自身だけで、またご自身にとって全く充足しておられ、彼が造られたどの被造物をも必要とせず(5)、それらから何の栄光を得てくることもなく(6)、ただご自身の栄光を、それらの中に、それらによって、それらに対して、またそれらの上に表わされる。彼は、すべての存在の唯一の源であって、万物は彼から出、彼によって成り、彼に帰する(7)。…」
参考聖句: 1 ヨハネ5:26 2 行伝7:2 3 詩119:68 4 Ⅰテモテ6:15、ロマ9:5 5 行伝17:24,25 6 ヨブ22:2,3 7 ロマ11:36
聖書と思い巡らし
すでにウェストミンスター信仰告白2章1節で出エジプト記3章を引用したが、繰り返しに値する。モーセが見たあの芝は、そこに炎がいくら燃えていても、芝の燃料は使われず、炎はただあった。同様に、主なる神様はその燃える芝の中から、<神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」>(出エジプト3章14節)
パウロはアテネの未信の哲学者たちに、「すべての存在の唯一の源」であることを次のように述べた。
使徒の働き17章24〜25節 「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。」
私たちは完全な神様をに何かを足すこともできない(ヨブ2章3節、ローマ11章35節参照)。また、神様から何かを奪うこともできない。
では、この教えの何が良いのだろうか。神が絶対的な存在であると信じると、私たちからかけ離れ過ぎた存在なのか。いいえ、神の完全な存在の栄光は、私たちの心配と悩みを和らぐ助けである。つまり、私たちの成功は神様を膨らますことはない。失敗は神様を小さくすることはない。
クリスチャンは確かに、神様の栄光を表すべき存在として造られた。神の栄光を表すと自分も幸せである。ところが、成功しても失敗しても神様の栄光そのものは変わらない。
神の栄光を太陽の光にたとえてみよう。太陽光は、植物は光合成で活用し、人は鏡で映すことはできる。でも天気が悪くても、鏡などが無くても、太陽光はまだある。神様の栄光そのものは変わらないが、私たち人間がそれを楽しむかどうかが変わる。そんなに偉大な神様だからこそ、私たちの問題をも助けていただける。
神様は(次の箇所でもっと見るとおり)私たちの欠けと失敗をも含め、全てを計画にも含める(イエス様の十字架も!)ほどに、「無限、永遠、不変…」である(ウェストミンスター小郷里問答問い4参照)。だから、あなたの罪も、神様の完全な「命、栄光、善、祝福」を覆すことはできない。神様の完全な愛をも覆すことはできない。
祈り
天のお父様、完全な存在であなた様は「命、栄光、善、祝福」の完全な方です。私は色々なことに揺るがされますが、この人生もあっという間に終わります。神様のみ、無限です。でも私を、永遠の愛で愛してくださり、永遠のいのちを与えるためにイエス様をも贈ってくださいました。イエス様もいのちを捨てては、またいのちを持たれました。神の偉大さに喜び、驚き、日々神様の変わらない栄光を益々楽しめますように。キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
引用、補足など
※⑴「ウェストミンスター信仰基準」日本基督改革派教会大会出版委員会編、1994、新教出版社。1964年訳 日本基督改革派教会信条翻訳委員会。
※⑵ 聖書箇所は原則、全て新改訳2017 (©2017 新日本聖書刊行会)の引用です。投稿者訳なら明記します。
Westminster Confession of Faith and prayer series, Reformed Christian theology in Japanese
