木には竹をつがない!神学には聖書だけの樹液を。
関心した箇所をお分かちします。岡田稔著の『改革派神学概論』※⑴からです。
…木に竹を接ぐような失敗をしないよう、どこまでも改革派の原理を忠実に一貫するよう注意深い普段の努力が必要であろう。(4ページ)
果樹の幹に別種類の植物を接ぎ木しようとしても、樹液は違ってうまく合わないだろう。同じ性質同士の幹と枝でなければ、うまく育たない。(輸血でも、当然血液型に注意してから、行う。)
「改革派の原理」って?次の箇所で岡田先生はそれを「神中心主義」と言う。神中心でない論理や情報源は結局、神についての学び(神学)にとって健全な樹液を提供しない。
…神学の原理と方法を明示し確立する仕事…で少しでも神中心主義〈という、改革派の原理〉という点にゆるみができると当然打ち建てられるべき神学全体が改革派的な神学として不適格なものとなろう。その意味で私たちはあくまでも神学の原理と方法を神中心的に確立するために、序説としてただ啓示と聖書とを語ることに集中しなければならず、それ以外のものを借用することはできない。(4ページ)
聖書が本当に神からの啓示であれば、それ以外のどの物差し(考古学、合理性など)でも測ることはできるまい。神様が明言してくださった聖書以外の「樹液」を受けようとしてしまえば、痛みます。
聖書が教えていないことについては他のところからもちろん学べることは多い!そして聖書の読み方(神学)や自然界などの読み方(科学)の接点と対話をも考えることはできる。
ただ、神学は聖書こそ、神のみ言葉こそから流れ出る「樹液」で永遠のいのちを教える。他のものを入れてしまえば、どうしても人間中心になり、結局望みも弱まってしまう。神様の直接の啓示である聖書こそから、神にある望みを見出せる。
それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」ヨハネの福音書6章67~69節
引用:
※⑴ 岡田稔『改革派神学概論』聖恵授産所出版部、1985年。
※⑵ 聖書箇所は新改訳2017 (©2017 新日本聖書刊行会)の引用。