聖書の原文と訳文、と祈り(WCF 1:8)
ウェストミンスター信仰告白第1章8節
「(昔の神の民の国語であった)ヘブル語※の旧約聖書と、(しるされた当時、最も一般的に諸国民に知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは、神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である(1)。それで、すべての宗教論争において、教会は最終的にはこれらに訴えるべきである(2)。しかしこれらの原語は、聖書に近付く権利と興味をもち、神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているすべての神の民(3)に知られてはいないから、聖書は、神のみ言葉がすべての者に豊かに内住して、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し(4)、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために(5)、聖書が接するあらゆる国民の言語に翻訳されなければならない(6)。」
参考聖句: 1 マタイ5:18 2 イザヤ8:20、行伝15:15、ヨハネ5:39,46 3 ヨハネ5:39 4 コロサイ3:16 5 ロマ15:4 6 Ⅰコリント14:6,9,11,12,24,27,28
聖書と思い巡らし
信仰告白1章8節は前半で原文の大切さを教えつつ、後半で聖書翻訳の使命もあるとも主張します。
まず原文ですが、これは「神によって直接霊感され」とあり、第二テモテ3章16節「聖書はすべて神の霊感による」で以前見たとおりです(1章4節の話参照)。旧約聖書はヘブル語(一部アラム語)、新約聖書は当時の共通言語のギリシャ語で書かれています。原本はもう、見つかっていませんし、存在しないと推測して良いです。写本には、多少なりの相違もあります。どうして、「あらゆる時代に純粋に保たれた」と言えるでしょうか。
写本を照らし合わせてみると、確かに小さな違いは多数あります。しかし、どれが原文か判断しやすいことが多いです。そして、どの写本の相違についても、聖書の意味を変えるようなものはないと言われます。さらに、写本は照らし合わせが可能なほどに多数に書かれ残っていることも神様の守りの故です。確かに、「神の独特な配慮と摂理によって」聖書を人の誤りから守ってくださいました。
だから、解説書や訳文に依存せず、聖書の原文を確認して、主の教えを確かめるべく、教会の教師は原文に精通していることが大切です。「ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない」とイザヤ8章20節にあるとおりです。
ところが、原文だけで教会は成長できません。古代から聖書翻訳はなされてきました。今も、ウィクリフなどの聖書翻訳者が世界にある約7,000もの言語に聖書を訳すという巨大な挑戦を続けています。
パウロは、聖書が完成していないクリスチャンたちに礼拝のあり方を指示する中、異言(聖霊様が一時的に祈りのために語らせる言葉)を訳せる人がいなければ黙りなさいとまで言い、礼拝では理解できることは必須と指摘します(第一コリント14章11〜12節など)。私たちの礼拝での表現も、敷居が高すぎないように気を配る原則もここから学べます。これは、一人ひとりが聖書を心に留め(コロサイ3章16節)、正しく礼拝し、望みを抱く(ローマ15章4節)ためであるとも、信仰告白は述べます。神様の家族が神様を知り喜べるように、理解できる言語で聖書を知る必要はあります。だから、聖書翻訳は必要です。
祈り
天のお父様、私たちは神様を正しく知り、神の恵みにより神を慕い求め、讃えたいと願いますから、聖書の原文が残されていて人に読まれることを感謝します。聖書の原文をありがとうございます。そして、理解できるように多くの方が聖書翻訳に当たってこられたこともありがとうございます。その実りを無駄にせず、学び、心に留め、信じて従うことができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
※引用:(1)聖書箇所は原則、新改訳2017 (©2017 新日本聖書刊行会)の引用です。(2)「ウェストミンスター信仰基準」日本基督改革派教会大会出版委員会編、1994、新教出版社。1964年訳 日本基督改革派教会信条翻訳委員会。