聖書は十分!と祈り(WCF 1:6)
ウェストミンスター信仰告白 1章6節(1)
「神ご自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、聖書の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。その上には、みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても、どのような時にも何ひとつ付加されてはならない(1)。それにもかかわらず、わたしたちは、み言葉の中に啓示されているような事柄の救拯(きゅうじょう)的理解のためには、神のみたまの内的照明が必要であること(2)、…を認める(3)。」
参考聖句: 1 Ⅱテモテ3:15-17、ガラテヤ1:8,9、Ⅱテサロニケ2:2 2 ヨハネ6:45、Ⅰコリント2:9-12 ※
聖書と思い巡らし
聖書で、本当に十分なのだろうか。はい!補足書を求めなくても良い。改訂版を待たなくても良い。
確かに、聖書が書いていない詳細はある。他のところから学べることで、より快適な暮らし、時にはより快適な心境を持つことも可能である。しかし、本当に聖書だけで、心を変えられて歩むことができる。
第二テモテ3章15〜17節 …聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(第二ペテロ1:3-4・11-13・16-21参照)
確かに、聖書理解を手助けする資料はあったり、抗うつ剤が役に立ったりするのである。しかし、根本的な必要は常に心である。心を根本的に扱えるのはただ、聖書のみである。
ヘブル4章12節 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
また、この十分な聖書を覆すように、聖霊様や他の人の賢い洞察を聖書のような権威があると認めることはできない。「みたまの新しい啓示によっても、人間の伝承によっても」、聖書のような教えはない(ガラテヤ1:8〜9参照)。聖書は十分、完全である。
ところが、聖霊様は新しい教えを与えないが、必要である。聖霊様はすでに与えられた聖書の言葉を理解する助けを下さる、不可欠の方であられる。これは聖霊様による「内的照明」とも言う。師匠の作品がどんなに素晴らしくても、それを見る目が霞んでいたり素人の視線であったりすれば、正しく見極められない。神の傑作「聖書」を正しく悟るための能力は、聖霊様のみが、かつては見えなかった心の目に与えられる賜物である。
第一コリント2章12節 しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。
聖書は本当に十分!そしてそれを人に書かせた聖霊様が、それを理解する恵みをくださる!だから期待して読むことはできる。
祈り
天のお父様、私の「救いと信仰と生活のために必要なすべての事柄」を用意してくださって、ありがとうございます。イエス・キリストにあって、全ての霊的祝福が用意されています(エペソ1:3)。感謝します!聖霊様をも感謝します。キリストにある富を、聖書になった本に書くよう息吹かれ、霊感された方です。その上、私自身の心の目を開いてくださって「照明」くださった方です。聖書に書かれている救いと生活に歩めますよう、助け続けてください。主イエス・キリストを通してお祈りします、アーメン。
※引用:(1)聖書箇所は原則、新改訳2017 (©2017 新日本聖書刊行会)の引用です。(2)「ウェストミンスター信仰基準」日本基督改革派教会大会出版委員会編、1994、新教出版社。1964年訳 日本基督改革派教会信条翻訳委員会。