「神様」は遠いの?近いの?
神とか「神聖なこと」は疎遠な、あるいは敬遠したい遠い存在と感じるかもしれない。特に一神教のキリスト教などは、日本の至る所の社・地蔵・占い師より「敷居が高い」、「近づきにくい」存在に感じられるかもしれない。
それにある程度、一理はある。まず文化として違いを感じるのもあるかもしれない。クリスチャンは分かりにくい話をする傾向があるかもしれない。そして、確かに聖書の神様は人間を遥かに超越した方である。
島田裕巳氏の視点
島田裕巳という宗教学者は著作『日本人の神はどこにいるか』(ちくま新書351、2002年)で興味深い主張をなさる。すなわち、キリスト教のような一神教では、神の存在は絶対であり、それゆえ、人間など被造物を超越する(目で見えない、測定できない、触れられない)。
だから、聖書の神は親しみにくく、どうしても聖人(聖母マリアなど)が間に立つようになりがち、と言う(131-132ページ)。例に、ローマ・カトリックの聖人崇拝などを指す。そしてそうだとすれば、日本の多神教とそれほど変わらないのではないか、と主張する(216-219ページ)。
聖書の視点 キリストが近づいて来た!
島田氏の本全体を取り上げられないが、興味深いポイントだと思う。確かに、クリスチャンでも、特定のクリスチャンを崇拝に近い形で大切にする傾向はところどころ、プロテスタントにも見受けられる。
ところが(そして島田氏もプロテスタントのキリスト教についても認める:121ページ)、ヨハネが言うのは、神(命・言)は超越しているが、人間となって近くなってくださいました。そしてそのイエス・キリストが、間に立つ方です(第一ヨハネ2章1節)。
キリストは神であり間に立ってくださった。
テトスへの手紙2章13節 …大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリスト…(参照:ヨハネ10章30~33節)
でも、キリストはさらに人間となり、間に立ってくださった。
第一テモテ2章5節 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
キリストとして、神様は近づいてくださった。見られ、触れられ、聞かれる本当の人間として歩まれた。(参照:第一ヨハネ1章1~2節)
クリスマスで祝う、神様との親しさ
クリスマスに祝うこの「受肉」(Incarnation)の現実(真理)は、人間が理解しきれなくても、本当である!
ヨハネの福音書1章1~3、14節 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
…ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(下線で強調追加)
だから、聖書の神様は超越する神様であるが、自ら人間に近づいてくださる神様である。契約という関係をお与えになり、あわれみと恵みを示してくださる。親しく歩むことができるように呼びかけられた。その語りかけを、聖書で求めることから始めよう。
ヨハネの福音書17章3節 「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」