皆を通して、神様のご栄光が… 主の祈り(6)

 主の祈りの「「御名が聖なるものとされますように」(マタイ6:9)について、最後に考えたいことはウェストミンスター小教理問答101問の後半にあります。

「問101 第一の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。

答 (「ねがわくは、み名をあがめさせたまえ」という)第一の祈願で私たちが祈る事は、…神が私たちと他の人々に神の栄光をあらわす力を授けてくださるように、また、神が万事を御自身の栄光のために配剤してくださるように、ということです。」

皆を通して…神様の導きの広さ

 前回、神様の栄光(聖なること)が神様が造られたもの、私たちの経験(苦しみを含む)、そして神様の御言葉である聖書によってあらわされると言いました。神様がこれらを用いてくださいますが、「私たちと他の人々」が賛同する姿勢も大切です。「私たちと他の人々」が神様の栄光をあらわしたくて、あらわせるなら、非常に大きな祝福です。これを祈り求めます。

 自分のために生きようとしてしまう人(罪びと)では、神様の栄光があらわれなくなるのでしょうか。いいえ、 神様はあらゆること「万事を御自身の栄光のために配剤してくださる」と祈ります。そして実際に神様はそうしてくださいます。大まかに三つのパターンで神様は「万事を御自身の栄光のために配剤」なさいます。

未信者についての「万事」

神様を憎む人については、万事は神様の公平さと義をあらわすことになります。例えば、詩篇83篇(2節参照)は神様が裁きによって御自分の聖なることを示すように祈ります。

詩篇83:17-18 彼らが いつまでも 恥を見て 恐れおののきますように。 辱めを受けて 滅びますように。 こうして彼らが知りますように。 その名が【主】であるあなただけが 全地の上におられる いと高き方であることを。

 裁きの中でも、神様は聖なることを示されます(ローマ9:21-22参照)。何よりも、十字架でそれが示されました(使徒4:27-28、ローマ3:23-26参照)。

信者についての「万事」

 2)神様を信じる人は、罪犯す場合でも、神様は用いることができます。クリスチャンにとって、これが一番悩ましいかもしれません。ヨセフを奴隷として売り飛ばした兄たちはそうでした。ヨセフと再会して、恐れた兄たちには、創世記50章20節にヨセフは「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」と答えました。

 3)神様を信じて、従う人についても神様は用いられます。これが一番難しく感じる方法であっても、私たちにとって最も喜ばしいことです。パウロが告白しました。

ピリピ1:20-21 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬこと〈23節:世を去ってキリストとともにいること〉は益です。

 私たちにとって、万事が益となることをも約束されています。だから期待して、神様の栄光をあらわせるように祈り求めたいと思います。

ローマ8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

※引用(1)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会。(2)ウェストミンスター信仰基準(小教理問答、第教理問答、信仰告白)は日本基督改革派教会大会出版委員会編訳より。