心から聖書に服する訳、と祈り(WCF 1:5)
このシリーズの紹介はこちら。
ウェストミンスター信仰告白1章5節
「わたしたちは教会の証言によって、聖書に対する高く敬けんな評価へ動かされ、導かれることもあろう(1)。また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳、あらゆる部分の一致、(神にすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行なっている十分な発表、その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある。しかしそれにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言して下さる聖霊の内的なみわざから出るものである(2)。」
参考箇所: 1 Ⅰテモテ3:15。 2 Ⅰヨハネ2:20,27、ヨハネ16:13,14、Ⅰコリント2:10-12、イザヤ59:21。※
聖書と思い巡らし
聖書の著者が本当に神様なのか、真実なのか。何によって確証されるだろうか(1章4節参照)。人間中心な「客観的、科学的、合理的な基準」で、聖書を上から目線で判断するなら、答えは出ない。それは、聖書の権威ではなく自分の権威を主観的に主張しているだけである。
しかし、聖書によると、聖書を読む人は神様に導かれないと、本来の意味と権威を知り受け入れることはできない。神を元から蔑ろにする姿勢を持って聖書を読むとどうだろうか。「真理を阻んでいる」姿勢で、自らの権威で読もうとしている。(ローマ1章18。21節参照)。
でも、世界中で数えきれない程多くの人は聖書に、心から服し、憩うのである。なぜか。信仰告白はいくつかの間接的な理由を教える。(信仰告白1章5節)
- 私たちが聖書に出会って、関心を抱いたのは、誰かの紹介や証言によったかもしれない。
- 聖書を読んでいくうちに、「これは特別な本だ」と、今まで数えきれない程の人は認めてきた。
- 内容の多くは、天からしか知り得ない事である。(地上の歴史であったり、人間の証言もあっても、視点は神様の視点を度々挟んでいる。)
- また、その教えの「有効性」によって人が罪を知りさらに罪の刑罰から救われ、神様を永遠に喜び楽しめるようにしていただいてきた。
- その全体は(本当の)矛盾なく、詩的に共に神の栄光を表し、秩序と美しさを帯びる。
- 「その他多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さ」は共に、これが「神のみ言葉である」と示す点は多く存在する。
しかし、最終的に神様が「聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信」を下さるのは、聖書そのものとそれを用いて語っておられる聖霊様であられる。
第一コリント2章10・12節 それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。…私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。
だから、神の啓示である聖書を理解して心から「受ける」ために、聖霊様の助けが決め手である。聖書の力がが発揮されるために、引き離せないセットである。
祈り
天のお父様、私は聖書を読んで、素晴らしいこともあると認めますが、これが本当に神様からの言葉であり私が従わなければいけないというほど権威あるとは、認めたくないことがあります。こんな私をあわれみ、聖書に記されているイエス・キリストを心から信じるようにしてください。聖霊様の助けをお願いいたします。そして、期待して、キリストの永遠のいのちを、そして聖霊様の助けを感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン。
※引用:「ウェストミンスター信仰基準」日本基督改革派教会大会出版委員会編、1994、新教出版社。1964年訳 日本基督改革派教会信条翻訳委員会。