聖書の著者の権威、と祈り (WCF 1:4)
ウェストミンスター信仰告白1章4節
「4 聖書がそのために信じられ服従されねばならないところの聖書の権威は、どのような人間や教会の証言にも依拠せず、(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれられなければならない(1)。」
参考聖句: 1 Ⅱペテロ1:19,21、Ⅱテモテ3:16、Ⅰヨハネ5:9、Ⅰテサロニケ2:13
聖書と思い巡らし
第二ペテロ1章21節 預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。
信仰告白1章4節は、聖書の権威を取り上げます。なぜ信じるべきか、という重大な確認です。私たちが信頼する色々な情報源の信頼性がそれを書いた人の権威にかかるように、聖書の価値と権威はその著者の権威にかかっています。
聖書は多くの人によって、書き留められました。彼らはルカのように(ルカ1章1〜4節)のように、研究したりして、意識を持って自ら書きました。しかし同時に、最初から最後まで、神様が全部分の「著者」でした。「聖書はすべて神の霊感によるもので、…」と第二テモテ3章16節は教えます。当時の「聖書」は旧約聖書全体、そして恐らく、現在の新約聖書のある部分を指しました。
「すべて」は「神の霊感による」、別訳では「神の息吹による」(新改訳2017註)ものです。どのように神様が人によって書いたか、細かく説明されていませんが、冒頭の第二ペテロの箇所はある程度教えます。聖霊様が人間の著者たちに、正しく書くように導いてくださったことです。
また、信仰告白は神様が「真理そのもの」だと強調します。これも」大切な神様の真実また真理については聖書はよく語ります(民数記23章19節、イザヤ65章16節など)。神様は、誤って語ることはあり得ません。必ずしも、細かく、あるいは私たちが要求する内容を伝える訳ではありません。聖書から学べないことはたくさんあり、それを謙遜に認めるべきです。けれども書かれている全てのことが神様の導きに与えられたのです。
「従って聖書は、神のみ言葉であるという理由から、受けいれられなければならない」、つまり、私たちは聖書の権威を認めて、内容を信じて、従う責任はあります。人間の理性、集団の多数決や感情によって、聖書の正誤を判断する権威は私たちにはありません。聖書の権威は、聖書の著者であられる神様にあり、聖書の証しによってその権威が確立されました。それは矛盾ではなく、神様の立場による必然的な権威の由来です。
神様が愛を持って、私たちにそれを読み、神ご自身を知る特権を賜ったと思って、感謝です。受け入れたくない箇所も、神様が下さったものです。受け入れるように求めたいと思います。
祈り
天のお父様、聖書は長くて、ところどころ分かりにくいまた矛盾のように見えたり、受け入れがたかったりします。しかし、神様をそこから知りました。神様が真理であり、嘘をつくことをなさらないと信じます。神様がイエス様によって愛を示したと教えてくださって、私を変える真理を伝えてくださいました。分かりにくいあるいは信じにくいところについて、どうか助けを与えてください。謙遜に服従することができるよう、お助けください。期待して、主イエス・キリストの御名によってお祈りします、アーメン。
※引用:(1)聖書箇所は原則、新改訳2017 (©2017 新日本聖書刊行会)の引用です。(2)「ウェストミンスター信仰基準」日本基督改革派教会大会出版委員会編、1994、新教出版社。1964年訳 日本基督改革派教会信条翻訳委員会。
Westminster Confession of Faith and prayer series, Reformed Christian theology in Japanese. WCF 1:4 authority of Scripture.