神様の啓示の必要性、と祈り(WCF 1:1)

序論で説明したとおり、ウェストミンスター信仰告白が冷たい学者の議論ではなく、活きる信仰を支え、祈りを励ますものであるという経験と感謝をもって書いている「思い巡らし」(デボーション)である。信仰告白の箇所を読み、聖書から理解を深めて、祈る手助けとなればと願って、お分ちする。

ウェストミンスター信仰告白1章1節 ⑴

「自然の光および創造と摂理のみわざは、人間を弁解できないものとするほどに、神の善と知恵と力とを表わすとはいえ(1)、しかしそれらは、救いに必要な神とそのみ旨についての知識を与えるには十分でない(2)。従って主は、いろいろな時に、いろいろな方法で、ご自身の教会に対してご自分を啓示し、み旨を宣言し(3)、…」

参考聖句:1 ロマ2:14,15、ロマ1:19,20、詩19:2-4(1-3)、ロマ1:31,2:1  2 Ⅰコリント1:21、Ⅰコリント2:13,14  3 ヘブル1:1

聖書と思い巡らし

 聖書とは、人の霊的ないのちにとってはどれほど必要だろうか。真の神を知り、祈る為に、必須である。ウェストミンスター信仰告白1章は第1項に、聖書の必要性を論じて、徹頭徹尾の聖書基盤神学を打ち出し始める。

 聖書は必要だと言うのは福音派ではごく普通である。しかし、聖書を離れてあるいはそれに優って、理性で、霊感で、神秘的な経験でも真の神様と関係を持てるという主張も、いわゆる福音派でも聞かれる。

 聖書がなくても、まことの神様の存在、創造、知恵などは全ての人に知られる。(彼らはそう認めなくても)

ローマ1章19~20節 神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

 しかし、人間はこういう「一般啓示」を中々認めない。その代わり、他のものを神として扱ってしまいがち。私たちの側から、神様に近づくことは歪んだ方向へ向かう。私たちが自ら神に近づくことはできると思ってしまう(創世記11章、バベルの塔参照)。

ローマ1章22~23節 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

 感謝なことに、神様は罪ある心が解釈する被造物の一般啓示(世界の自然法則、自然そのもの、人間の善悪の理解など)を超えて来られた。直接被造物をそして御自身を「特別啓示」にて、すなわち言葉で表してくださった。ヘブル人への手紙1章1節は「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られました」と言う。主は多様な方法(直接な預言、夢、幻、主の使いの現れ、ウリムとトンミム…)を用いて、旧約時代の人々に語られた。

 啓示の手段は多様だったにもかかわらず、神の「御言葉」がいつも中心にあったことはなんと感謝な事だろう。

祈り

 天のお父様、祈りが可能ということさえも、あなた様のあわれみゆえです。神様の御啓示ゆえです。この相互の関係を持とうと思ったのは私ではなく、神様でした。この関係を築いて、保もつのは私ではなく、神様です。体験や感情を認めながらも、これらに左右されないで神様の御言葉に従えるよう、どうか助けてください。世の中に生きながらも、神様の御言葉によって理解と思いを刷新させてください(エペソ4:23、ローマ12:2)。イエス・キリストが従わない時の私を贖って、共におられることも感謝します。キリストの御名によって祈ります、アーメン。

 

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