「聖なるもの」主の祈り(4)

「御名が聖なるものとされますように①」マタイ6章9節

 イエス様が弟子たちそして私たちに教えてくださる最初の願い事「御名が聖なるものとされますように」はピンと来ないかもしれません。「聖なる」もピンと来ないかもしれません。実は、すでに見たマタイの福音書6章9節の「天にいます…父よ」の「天にいます」ことも「聖なる」ことを示唆します。

「聖なる」?

 もう少し言うと、「聖なる」という言葉は道徳的に清いだけでなく、他から別たれた、特別、超越したということです。具体的に聖書の用い方から言うと、被造物全てからかけ離れて別たれた、威厳と清さと力がある唯一の存在なる神様のみが本当に自ら聖なる方です。そして、神様が自らご自分に近づける者についても、「聖なる」として扱われます(第一ペテロ2:9など)。

神様を常に前にして、その神聖さをよくわかる天使たち(彼らも燃え盛るような姿を持つほどに特別ですが)は聖なる神をどのように扱うか、イザヤ書6章が伝えます。その天使は神を直視することさえできません。ただ、賛美し崇めます。

イザヤ6章1~4節 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、 互いにこう呼び交わしていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満ちる。」
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。

 ヘブル人への手紙12章29節は新約時代にも続くこの現実を教えます。「私たちの神は焼き尽くす火なのです。

聖ではない者…聖なる者とされる

 イザヤ6章で聖なる主を見たイザヤは、「ああ、私は滅んでしまう。 この私は唇の汚れた者で… しかも、万軍の【主】である王を この目で見たのだから」と怯えました。私たちは神様をそれ程に優れた方として見ているでしょうか。イザヤはそこで意識したとおり、その場で滅んでもおかしくなかったのです

 けれども、恵みの展開となりました。イザヤ書9章6~7節によると、イザヤは「あなたの咎は取り除かれ、 あなたの罪も赦された」と宣言されました(7節)。神様は聖なる方なのに、罪びとを聖なる者、近づいても焼き尽くされない者として扱っていただけます。

 その根拠は、新約聖書で明らかになったように、「イエスの血によって大胆に聖所〈神のおられるところ〉に入ることができます」(ヘブル10:19)。イエス・キリストが聖なるでない者として、罪人の代わりにけがれを取り払い、御自分のきよさを信じる者に授けてくださいます(第二コリント5:21)!

聖なる者とされた人の応答

 聖なる者へと変えられる人はどのように応答するのでしょうか。神様の御心に自分を委ねて、神様の素晴らしさ、聖なることをあらわせるように願います。イザヤもそうでした。赦しを宣言されると、神様が預言者を求めます。イザヤは早速、自分をそのために捧げます(イザヤ6:8)。ウェストミンスター小教理問答第101問が教えるように、彼は神の名を聖なるものとして扱おうと思いました。

問 第一の祈願では、私たちは何を祈り求めるのですか。

答 (「ねがわくは、み名をあがめさせたまえ」という)第一の祈願で私たちが祈る事は、神が御自分を知らせるのに用いられるすべての事において、神が私たちと他の人々に神の栄光をあらわす力を授けてくださるように、…ということです。(ウェストミンスター小教理問答第101問)

 私たちは自分の力では神の栄光をあらわすこともできませんが、助けを祈り求めるのです。文語体の「御名を崇めさせたまえ」という表現ですが、これはこの祈願をよく表しています。要するに、私たちがこの祈りを祈ると、私たちもこの祈りの答えに含められています。私たちが神様の名を崇めて、大切に(聖なるものして)扱うように祈るからです。

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