祈るように招かれている 主の祈り(1)
遠い、しかし、近くまで来てくださった神様
聖書の神様は、人が祈るように招いてくださる方です。言い換えると、クリスチャンは他の宗教では味わえない関係を楽しむことができます。
一方である宗教の神は超越し過ぎたり、人格がなかったりして、対応できません(大あまかに言えば、イスラム教やインド等従来の仏教)。
他方、多くの宗教では、力や知恵が限られて(場合には、道徳面でも人間のようにいかがわしい)、近くにいてもそれほど意義また助けのある関係を持つことができません(大まかに言うと、聖書に出る多神教や先祖崇拝、神道など)。
しかし、高く超越されているのに近づいて、神と人間の間に立つ、神であり人間である仲介者キリストの存在と十字架の御業により、私たちは特別な関係を喜ぶことができます(第一テモテ2:5)。
祈りの型
ウェストミンスター小教理問答(教理問答:Q&A形式で聖書の教えをまとめる学びのジャンル)では、クリスチャンが祈り方を知るための「型」をこのように書かれています。(第99問)
「神は、私たちに祈祷を教えるために、どんな基準を授けていてくださいますか。
答 神の御言葉全体が、私たちに祈祷を教えるのに役立ちます。しかし、その特別な指導基準は、キリストが弟子たちに教えられた祈祷文、いわゆる“主の祈り”です。」
聖書全体
確かに、「主の祈り」以外にも、たくさんの祈りがあります(例:創世記18でアブラハム、詩篇3・61・71などでダビデなど、黙示録22:20で使徒ヨハネ)。詩篇の多くは祈りです。第一ヨハネ5章14節は、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です」と教えます。「何事でも」、祈祷課題の題材にはなります!
特別な型
ところで、特にイエス様ご自身は弟子たちに模範となる祈り方を教えてくださり、神様との関係を楽しむ方法として下さいました。マタイの福音書6章9節に「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」とそれを紹介して、祈るように招いてくださいました。考えずに祈るのは、イエス様がその直前に注意したことに反します(マタイ6:7-8)。理解して祈ることは重要です!次回からしばらく、主の祈りを学びたいと思います。
でも今日、一緒にそれを読み、創造主なる神様が、弱くて罪深い人間に祈りを通して関わるように教えて、招いてくださることの大きさに驚いて、感謝したいと思います(イザヤ57:15参照)。イエス様は十字架で犠牲を払って、祈りを聞かれる準備をしてくださいましたから。
マタイ6章9〜13
「天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、
地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、
悪からお救いください。」
ウェストミンスター信仰基準(小教理問答、第教理問答、信仰告白)は日本基督改革派教会大会出版委員会編訳より。